ナイーブな自分にはよくわからないが競争に向き合わない社会への猛烈な憤りが。「競争の作法」感想文
本書は、いろいろな書評で取り上げられ、かつ、かなりの高評価を受けていたと記憶。
http://www.amazon.co.jp/%E7%AB%B6%E4%BA%89%E3%81%AE%E4%BD%9C%E6%B3%95-%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%AB%E5%83%8D%E3%81%8D%E3%80%81%E6%8A%95%E8%B3%87%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%8B-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%BD%8A%E8%97%A4-%E8%AA%A0/dp/4480065512/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1321667328&sr=1-3
目次より(一部を抜粋)
プロローグ ポスト・リッチネス、プリ・ハピネスの時代
第1章 豊かさと幸福の緩やかな関係
「国民経済計算」で取り扱っていないこと
リーマン・職の本当の大きさ
日比谷「派遣村」の怪
失業率が語るもの
雇用調整助成金による失業の潜在化?
「デフレ危機」なのか?
「幸福なき豊かさ」の追求
第2章 買いたたかれる日本、たたき売りする日本
2001年、エルメス、銀座目抜き通りに参上!
お買い得だった銀座
買いたたく海外勢に加勢する日本勢
「ほどほど」は難しい
2007年初のトヨタ自動車
「目にみえない円安」の見える化
輸出主導の景気回復のコストの大きさ
「戦後最長の景気回復」とは何だったのだろうか
悲しいかな、エコノミスト
「戦後最長の景気回復」が日本経済につきつけた現実
少数の貧困、多数の安堵
第3章 豊かな幸福を手にするための働き方
合理性を超えたところでの合意形成
競争原理と平等原理の対立なのだろうか
2000年前後の雇用調整のすさまじさとむなしさ
格差社会論争の表裏 少数の貧困と多数の安堵
なぜ、格差社会論は流行したのか
ケーススタディ 高齢研究者雇用のあり方
競争に善いも悪いもない
第4章 豊かな幸福を手にするための投資方法
「失われた10年」こそが「失われた」?
目標が「失われた」
そもそもが間違っていたのではないだろうか
ガタガタの民間設備投資
下がりきらない地方の地価
持つなら使え、使わないなら持つな
エピローグ 競争と幸福の接点
本書は、発売された当時に読もうとして途中で挫折。
今回も・・・・・うううううむ。何度か挫折しかけた。
たぶん、とても面白い本なのです。きっと。
語り口はとても軟らかいし、マクロ経済の本なのに数式が出てこない。(本を読んでいて数式が出ると、いつもそこは読み飛ばすのです。笑)
少なくとも、世の中に対する筆者の猛烈な憤りはひしひしと伝わってくる。
大学における高齢者雇用の確保をめぐってのくだりは、とても面白い。本当にまじめな筆者が、愚直(失礼?)にも信念を貫こうとして孤軍奮闘している姿が見えるようだ。
そこをはじめとして、随所に、いい加減で自分勝手な日本社会に対する激しい憤りと、それによって虐げられている人々に対する熱いまなざし(言葉が変だな。)が噴出しているのです。
でも、ナイーブな自分にはよくわからないのです。いくら語り口が平易であっても、中身が猛烈に難しいとどうしようもなくて。
それでも、印象的なところを紹介すると。
16頁
豊かさは、幸福の必要条件だが、十分条件ではない
17頁
(リーマン・ショックについて)実は、得たものが小さかったのにもかかわらず、失ったものがずいぶんと大きいと勝手に錯覚して、理不尽なほど動揺していたのにすぎない
30頁
学生たちのリーマン・ショックへの対応がまったく幼稚だったからである。大学に出てこずに就職セミナーや会社説明会に出ることが、事態への有効な対応とは到底思えなかった。
31頁
学内には、自民党政権の失政を非難するアジテーションなど皆無であった。
34頁
日本の労働市場における正規労働と非正規労働の区別(差別といってもよい)は、「生産に対する貢献に応じて生産物を配分する」という競争社会の基本原理から著しく逸脱している。
日比谷公園、いや霞が関一帯が失業者であふれかえるといった量的な要素があまりにも欠如していたからである。
37頁
失業者数は、・・・約100万人の増加にとどまった。・・・労働市場全体を客観的に見てみると、未曾有、空前絶後の雇用危機というわけではなかったのである。
もし、2009年の失業率が2002年や2003年の失業率を下回っていることが伝われば、リーマン・ショック後の労働市場が「未曾有の雇用危機」に見舞われたと、懸命な新聞購読者はよもや思わなかったと思う。
42頁
(雇用調整助成金について)むしろ、この種の制度で懸念されるのは、制度の縮小・廃止によって失業者が増加することではなくて、制度の存続・拡充によって失業者が減少することではないだろうか。
48頁
新聞やテレビが「未曾有の雇用危機だ!」「潜在失業者数500万人だ!」「日比谷公園に失業者結集!」「賞与、最大の下げ幅!」と騒いでいるのをよそ目に、守られた場所で平穏に暮らしている人も結構多かったと推測できる。そういう人たちは、ただ、ただ沈黙していた。
56頁
正直なところ、デフレをめぐる政策論議は、ご勘弁願いたいという気持ちがある。1990年代末ごろから展開されてきた「デフレ脅威論」は、①現実を観察していない、②目をこらして数字を見ていない、③とことん理屈をめぐらしていない、④歴史的事実をねじ曲げている、という意味で、バーチャルな空間での思考様式のおろかしさを如実に示しているからである。
・・・少なくとも物価統計が整備された戦後に置いては、物価水準が何割も下落するど級のデフレなど、日本経済のデータにいっさい認められない。
62頁
そもそも手にしていないものを失ったと騒ぎ立てても、意味があることなのかどうかも疑わしくなってくる。
81頁
大規模な為替介入による円高阻止は、海外勢ができるだけ安値で日本の資産を購入するのを手伝ったことになる。・・・財務省の介入行為は、このように突き放してしまうと、お人好しともいえるし、ナショナリスティックな心情が勝ってしまうと、売国奴ということにもなるだろう。
しかし、海外勢に加勢した財務省の行動ばかりを批判するのはフェアーといえない。海外勢が日本買いに奔走しているまさにそのときに、狼狽して日本を売っていたのは、日本人自身だったからである。
93頁
トヨタ自動車には、2兆円のほとんどを株主に還元する心づもりはなかったようだ。「世界一」を目指して現在の事業規模をひたすら拡大することにほとんどを注ぎ込んでしまった。
96頁
日本の輸出企業の国際競争力の強さは、卓越した商品性や性能ではなく、二つの「円安」に後押しされた圧倒的な価格競争力によってもたらされた。・・・せっかく精魂を込めて作ったものを安値で海外にたたき売っていたのに等しい。・・・「戦後最長の景気回復」期になって、会社にも製品にも愛着を持たない非正規従業員が作ったモノでも高い輸出競争力を持つことができたのは、二つの「円安」の威光を背にたたき売ったからである。・・・・安値で海外に売って、高値で海外から買っていて、日本経済は、豊かになるわけはなかった。
114頁
2008年終わり頃から2009年初めにかけて、標準的な経済学の理屈どおりに調整をしていく市場に対して、底知れぬ強靱さのあることを率直に感じた。私は、「市場は美しい」とさえ表現したかった。
115頁
長期的にみれば、適正な水準に戻った株価についても、彼らは、「株価暴落の責任は、2006年にゼロ金利政策を解除した日本銀行にある」ととんでもないことを言い出したりした。
133頁
・・・ゼロ金利政策の導入だけは日本銀行の深い罪だと思っている。・・・・貧困にあえぐ少数の陰に隠れて、組織にしっかりと守られてきた多数の人々から緊張感が失われたことには目をつぶってきたのでないだろうか。
労働の現場、金融の現場、あるいは、教育の現場で、多くの人々の能力がどうしようもなく低下し、規律が目もあてられないほど劣化してきたことの方が、豊かな幸福が遠ざかった真の理由ではないだろうか。
145頁
2000年前後の雇用調整の結果は、競争原理が求めている成果にはるかに及ばなかった。きわめて非効率的な形で雇用調整を行い、無理矢理に労働コストを引き下げようとしたために、少数の貧困が悲惨をきわめた。
・・・「競争原理を貫いたから、平等原理に抵触した」のではなく、「競争原理を大きく踏み外したので、所得分配上の深刻な問題が生まれた」といえる。
149頁
5年間で節約できた実質労働コストは、1%にすぎなかった。解雇をし、あるいは、低賃金で雇用し、一部の人々に耐えがたい困難を強いておきながら、経済全体でみれば、たった1%であった。
5年間でこの程度の実質コストの削減であれば、ゆるやかなデフレの程度の応じて賃金をわずかに引き下げれば十分に可能であった。
151頁
経済全体の不平等度を表す統計値は、たとえわずかな上昇であっても、少数の人々の間で貧困化が確実に進行していたことを物語っていた。
156頁
なんのことはない、格差社会論争の格差反対に傾く論調が人々に歓迎されたのは、そうした人間の性向に合致していたからにすぎないのでないだろうか。
161頁
大学執行部は、高齢研究者の「平等な」待遇しか頭になかったのである。
197頁
民間企業の建設した工場や導入した機械の3割分は、将来の企業収益(企業価値)にまったく貢献しないガラクタにすぎなかった。
199頁
日本の資本主義には、株主らしい株主と経営者らしい経営者が真剣勝負で議論する風景が存在しない。その代償として、設備投資の投じた資金の何割をも無駄にしてしまうという破廉恥なことが毎年繰り返されてきたのである。
206頁
そろそろ、固定資産税の見直しに着手し、地主たちが土地を有効に利用する方向に追いつめていくべきではないだろうか。本来、土地を有効に活用するのが所有者の責任であるので、その方が地主も地主らしく振る舞うことができるであろう。
このようにみていくと、やっぱり、激烈だなぁ。
筆者は、猛烈に怒っているんですよね。きっと。
本書は、競争に向き合うことを避けてきた日本社会が、そのために緊張感を失い、それぞれの立場の人がそれぞれの責任に応じた振る舞いをしなくなってきたことへの猛烈な危惧をテーマにしている、とまとめることができるのではないか。
・・・といいつつ、ナイーブな自分には、本書の中身の2割も理解できていないのであるが。
参照「行動経済学の活用」 http://pu-u-san.at.webry.info/201102/article_42.html
・・・齊藤教授には、数年前に何度かご説明に伺ったことがあるのだが(おそらく先生の方はご記憶にないであろう。)、当方のナイーブな説明に対し、非常に厳しい指摘をいただいたものである。特に、ご専門である金融分野に関しては、説明者側の厳格な説明責任を求められたのを記憶している。先生の求めに応じるだけの高度な知見を有していないことを恥じたものである。
ところで、齊藤教授は、かなり早くからいわゆる「埋蔵金」問題について(その言葉は用いていないけれど。)指摘をされていた。参照 http://www.econ.hit-u.ac.jp/~makoto/essays/toyo4.pdf
ここで引用している2005年11月26日「東洋経済」掲載の論考は、独立行政法人に過剰な政府出資がなされているのではないかと問題提起したもの。なかなか興味深いです。
http://www.amazon.co.jp/%E7%AB%B6%E4%BA%89%E3%81%AE%E4%BD%9C%E6%B3%95-%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%AB%E5%83%8D%E3%81%8D%E3%80%81%E6%8A%95%E8%B3%87%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%8B-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%BD%8A%E8%97%A4-%E8%AA%A0/dp/4480065512/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1321667328&sr=1-3
目次より(一部を抜粋)
プロローグ ポスト・リッチネス、プリ・ハピネスの時代
第1章 豊かさと幸福の緩やかな関係
「国民経済計算」で取り扱っていないこと
リーマン・職の本当の大きさ
日比谷「派遣村」の怪
失業率が語るもの
雇用調整助成金による失業の潜在化?
「デフレ危機」なのか?
「幸福なき豊かさ」の追求
第2章 買いたたかれる日本、たたき売りする日本
2001年、エルメス、銀座目抜き通りに参上!
お買い得だった銀座
買いたたく海外勢に加勢する日本勢
「ほどほど」は難しい
2007年初のトヨタ自動車
「目にみえない円安」の見える化
輸出主導の景気回復のコストの大きさ
「戦後最長の景気回復」とは何だったのだろうか
悲しいかな、エコノミスト
「戦後最長の景気回復」が日本経済につきつけた現実
少数の貧困、多数の安堵
第3章 豊かな幸福を手にするための働き方
合理性を超えたところでの合意形成
競争原理と平等原理の対立なのだろうか
2000年前後の雇用調整のすさまじさとむなしさ
格差社会論争の表裏 少数の貧困と多数の安堵
なぜ、格差社会論は流行したのか
ケーススタディ 高齢研究者雇用のあり方
競争に善いも悪いもない
第4章 豊かな幸福を手にするための投資方法
「失われた10年」こそが「失われた」?
目標が「失われた」
そもそもが間違っていたのではないだろうか
ガタガタの民間設備投資
下がりきらない地方の地価
持つなら使え、使わないなら持つな
エピローグ 競争と幸福の接点
本書は、発売された当時に読もうとして途中で挫折。
今回も・・・・・うううううむ。何度か挫折しかけた。
たぶん、とても面白い本なのです。きっと。
語り口はとても軟らかいし、マクロ経済の本なのに数式が出てこない。(本を読んでいて数式が出ると、いつもそこは読み飛ばすのです。笑)
少なくとも、世の中に対する筆者の猛烈な憤りはひしひしと伝わってくる。
大学における高齢者雇用の確保をめぐってのくだりは、とても面白い。本当にまじめな筆者が、愚直(失礼?)にも信念を貫こうとして孤軍奮闘している姿が見えるようだ。
そこをはじめとして、随所に、いい加減で自分勝手な日本社会に対する激しい憤りと、それによって虐げられている人々に対する熱いまなざし(言葉が変だな。)が噴出しているのです。
でも、ナイーブな自分にはよくわからないのです。いくら語り口が平易であっても、中身が猛烈に難しいとどうしようもなくて。
それでも、印象的なところを紹介すると。
16頁
豊かさは、幸福の必要条件だが、十分条件ではない
17頁
(リーマン・ショックについて)実は、得たものが小さかったのにもかかわらず、失ったものがずいぶんと大きいと勝手に錯覚して、理不尽なほど動揺していたのにすぎない
30頁
学生たちのリーマン・ショックへの対応がまったく幼稚だったからである。大学に出てこずに就職セミナーや会社説明会に出ることが、事態への有効な対応とは到底思えなかった。
31頁
学内には、自民党政権の失政を非難するアジテーションなど皆無であった。
34頁
日本の労働市場における正規労働と非正規労働の区別(差別といってもよい)は、「生産に対する貢献に応じて生産物を配分する」という競争社会の基本原理から著しく逸脱している。
日比谷公園、いや霞が関一帯が失業者であふれかえるといった量的な要素があまりにも欠如していたからである。
37頁
失業者数は、・・・約100万人の増加にとどまった。・・・労働市場全体を客観的に見てみると、未曾有、空前絶後の雇用危機というわけではなかったのである。
もし、2009年の失業率が2002年や2003年の失業率を下回っていることが伝われば、リーマン・ショック後の労働市場が「未曾有の雇用危機」に見舞われたと、懸命な新聞購読者はよもや思わなかったと思う。
42頁
(雇用調整助成金について)むしろ、この種の制度で懸念されるのは、制度の縮小・廃止によって失業者が増加することではなくて、制度の存続・拡充によって失業者が減少することではないだろうか。
48頁
新聞やテレビが「未曾有の雇用危機だ!」「潜在失業者数500万人だ!」「日比谷公園に失業者結集!」「賞与、最大の下げ幅!」と騒いでいるのをよそ目に、守られた場所で平穏に暮らしている人も結構多かったと推測できる。そういう人たちは、ただ、ただ沈黙していた。
56頁
正直なところ、デフレをめぐる政策論議は、ご勘弁願いたいという気持ちがある。1990年代末ごろから展開されてきた「デフレ脅威論」は、①現実を観察していない、②目をこらして数字を見ていない、③とことん理屈をめぐらしていない、④歴史的事実をねじ曲げている、という意味で、バーチャルな空間での思考様式のおろかしさを如実に示しているからである。
・・・少なくとも物価統計が整備された戦後に置いては、物価水準が何割も下落するど級のデフレなど、日本経済のデータにいっさい認められない。
62頁
そもそも手にしていないものを失ったと騒ぎ立てても、意味があることなのかどうかも疑わしくなってくる。
81頁
大規模な為替介入による円高阻止は、海外勢ができるだけ安値で日本の資産を購入するのを手伝ったことになる。・・・財務省の介入行為は、このように突き放してしまうと、お人好しともいえるし、ナショナリスティックな心情が勝ってしまうと、売国奴ということにもなるだろう。
しかし、海外勢に加勢した財務省の行動ばかりを批判するのはフェアーといえない。海外勢が日本買いに奔走しているまさにそのときに、狼狽して日本を売っていたのは、日本人自身だったからである。
93頁
トヨタ自動車には、2兆円のほとんどを株主に還元する心づもりはなかったようだ。「世界一」を目指して現在の事業規模をひたすら拡大することにほとんどを注ぎ込んでしまった。
96頁
日本の輸出企業の国際競争力の強さは、卓越した商品性や性能ではなく、二つの「円安」に後押しされた圧倒的な価格競争力によってもたらされた。・・・せっかく精魂を込めて作ったものを安値で海外にたたき売っていたのに等しい。・・・「戦後最長の景気回復」期になって、会社にも製品にも愛着を持たない非正規従業員が作ったモノでも高い輸出競争力を持つことができたのは、二つの「円安」の威光を背にたたき売ったからである。・・・・安値で海外に売って、高値で海外から買っていて、日本経済は、豊かになるわけはなかった。
114頁
2008年終わり頃から2009年初めにかけて、標準的な経済学の理屈どおりに調整をしていく市場に対して、底知れぬ強靱さのあることを率直に感じた。私は、「市場は美しい」とさえ表現したかった。
115頁
長期的にみれば、適正な水準に戻った株価についても、彼らは、「株価暴落の責任は、2006年にゼロ金利政策を解除した日本銀行にある」ととんでもないことを言い出したりした。
133頁
・・・ゼロ金利政策の導入だけは日本銀行の深い罪だと思っている。・・・・貧困にあえぐ少数の陰に隠れて、組織にしっかりと守られてきた多数の人々から緊張感が失われたことには目をつぶってきたのでないだろうか。
労働の現場、金融の現場、あるいは、教育の現場で、多くの人々の能力がどうしようもなく低下し、規律が目もあてられないほど劣化してきたことの方が、豊かな幸福が遠ざかった真の理由ではないだろうか。
145頁
2000年前後の雇用調整の結果は、競争原理が求めている成果にはるかに及ばなかった。きわめて非効率的な形で雇用調整を行い、無理矢理に労働コストを引き下げようとしたために、少数の貧困が悲惨をきわめた。
・・・「競争原理を貫いたから、平等原理に抵触した」のではなく、「競争原理を大きく踏み外したので、所得分配上の深刻な問題が生まれた」といえる。
149頁
5年間で節約できた実質労働コストは、1%にすぎなかった。解雇をし、あるいは、低賃金で雇用し、一部の人々に耐えがたい困難を強いておきながら、経済全体でみれば、たった1%であった。
5年間でこの程度の実質コストの削減であれば、ゆるやかなデフレの程度の応じて賃金をわずかに引き下げれば十分に可能であった。
151頁
経済全体の不平等度を表す統計値は、たとえわずかな上昇であっても、少数の人々の間で貧困化が確実に進行していたことを物語っていた。
156頁
なんのことはない、格差社会論争の格差反対に傾く論調が人々に歓迎されたのは、そうした人間の性向に合致していたからにすぎないのでないだろうか。
161頁
大学執行部は、高齢研究者の「平等な」待遇しか頭になかったのである。
197頁
民間企業の建設した工場や導入した機械の3割分は、将来の企業収益(企業価値)にまったく貢献しないガラクタにすぎなかった。
199頁
日本の資本主義には、株主らしい株主と経営者らしい経営者が真剣勝負で議論する風景が存在しない。その代償として、設備投資の投じた資金の何割をも無駄にしてしまうという破廉恥なことが毎年繰り返されてきたのである。
206頁
そろそろ、固定資産税の見直しに着手し、地主たちが土地を有効に利用する方向に追いつめていくべきではないだろうか。本来、土地を有効に活用するのが所有者の責任であるので、その方が地主も地主らしく振る舞うことができるであろう。
このようにみていくと、やっぱり、激烈だなぁ。
筆者は、猛烈に怒っているんですよね。きっと。
本書は、競争に向き合うことを避けてきた日本社会が、そのために緊張感を失い、それぞれの立場の人がそれぞれの責任に応じた振る舞いをしなくなってきたことへの猛烈な危惧をテーマにしている、とまとめることができるのではないか。
・・・といいつつ、ナイーブな自分には、本書の中身の2割も理解できていないのであるが。
参照「行動経済学の活用」 http://pu-u-san.at.webry.info/201102/article_42.html
・・・齊藤教授には、数年前に何度かご説明に伺ったことがあるのだが(おそらく先生の方はご記憶にないであろう。)、当方のナイーブな説明に対し、非常に厳しい指摘をいただいたものである。特に、ご専門である金融分野に関しては、説明者側の厳格な説明責任を求められたのを記憶している。先生の求めに応じるだけの高度な知見を有していないことを恥じたものである。
ところで、齊藤教授は、かなり早くからいわゆる「埋蔵金」問題について(その言葉は用いていないけれど。)指摘をされていた。参照 http://www.econ.hit-u.ac.jp/~makoto/essays/toyo4.pdf
ここで引用している2005年11月26日「東洋経済」掲載の論考は、独立行政法人に過剰な政府出資がなされているのではないかと問題提起したもの。なかなか興味深いです。

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